「最初のものは過ぎ去った」家次恵太郎牧師
ヨハネの黙示録21章1~4節
「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(3-4節)。
聖書は私たちの神様は、私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださる神様だと伝えます。目に涙が流れるのは、悲しみだけはないでしょう。うれし涙というものがあり、場所や人や音楽などの懐かしさに涙が出た、ということもあります。それはぬぐい去られなくてもいいと思います。
ここで主が手を伸ばされるのは、深い痛みと共にある、悲しみの涙でしょう。涙が溢れるという表現があります。その通りの感覚を覚えます。一朝一夕でない感情があります。まるでコップに水がいっぱいに入っていて、それをこぼれないように運んでいるような人生の日々の中、その感情のコップに何かが入れば。勢いよく飛び込んできたならば。そこには溢れる涙があります。涙は悲しみであれ嬉しさであれ、自分の範囲を超えたキャパシティオーバーの感覚から繋がってくるものではないでしょうか。
その一つ一つを、その涙があふれるに至る背景を、出来事を、蓄積とトリガーと影響をも…主なる神は覚えていてくださる。
一つとして取りこぼすことはなく、慰めの時が訪れるのです。どうにもならない厳しい思いに、休みの時が来る。それは全てを知っていて理解者でいてくださる神からしか始まりません。そのような神と人の関係に、なってくださることをおやめにならない神様です。涙に関わることを諦めない神様が自ら人と共にいてくださると知らされます。
人にはそのような力はなく、励ましの言葉の見抜きも不十分をまとっています。誰かを助けても、その中で誰かが涙していることもある。終わりの日まで、その感覚のもどかしさは続くのかもしれません。しかし、隣人として置かれている所で、涙ぬぐう神が悲しみを望まれないことを知りながら、へりくだって助け合う者とされたいと願います。その御手をあらわすものとされていくことは、神様が導いてくださるならば、神の必要の中で意味を与えられ、誰かの意味になるのではないでしょうか。
悲しみを、世には無き光で照らして、渇き求めて伸ばしてきた手をとって救い抜いてくださる世界、時間の中に入れていただけます。悲しみと罪の不十分さに代わってです。最初のものは過ぎ去ったと、先だって宣言して下さっていますから。