「イエス様の渇き」 家次恵太郎牧師
ヨハネによる福音書章19章28~30節
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた」(28節)。
イエス様が十字架にかけられている時でした。人の目によるならば、いったい何が成し遂げられているというのでしょうか。イエス様はののしられ、釘打たれ、磔にされた方が、息も絶え絶えになっているのです。弟子たちもいなくなりました。
「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ8:37)と言われた方が、十字架上で渇かれたのです。本来渇くことのない神の子が、私達の罪を代わりに負い、裁きを受けてくださっているからです。それは渇きを代わりに引き受けてくださっているのです。その渇きは、命の渇きです。でも、十字架の場面に至る前も、イエス様は私たちのために、ずっと渇いてくださっていたのです。クリスマスに飼い葉おけに生まれ、苦しむ人をどこまでも探し求めて訪れ、無理解の中で神の愛と救いを語り続けてこられた方は、罪人と共に立って、その渇きをずっと引き受けてくださっていたのです。
私たちは、例えば喉が渇いたら、いつかどこかでいいや、ではなくすぐに飲み物が欲しくなります。特に夏場に外で活動していたら、気持ちの問題ではなく体の状態としても緊急で水分補給しないとなりません。持っているものでも、自動販売機でも、カフェに入るでも、渇きを何とかするためならすぐに何とかするものでしょう。
他者に対して、家族や友に対して、渇いているならばなんとかしてあげたい、と思うものです。しかし状況が好転していかない、報われない、進まないということが起こり得ます。
行くべき場所がない。それこそが本当の渇きです。しかし、私たちにイエス様の御言葉があります。渇いているものは誰でも、わたしのもとに来なさい。そして、「渇く」私たちが渇くことがないように、渇いてくださった。今も、あなたの渇きは受け止められ、行き場所を持っている、と言われているのです。
「渇く」。この言葉も私達への慰め深い語りかけとなります。イエス様のところに持っていっていいのだと信じていい。そのためにキリストは十字架の死を死なれ、私たちの罪を、欠けを、弱さを、死を、担ってくださりそこから守ってくださるのです。渇いて渇いて仕方がない私たちが潤されていく、命の泉が内からわき出て流れ、やがて誰かをも潤していく。そんなことが起きるのです。あなたは救われるということです。だからあなたも大丈夫と私たちが言われ、誰かにも伝えることができる。イエス様がいてくださるから。私達の行き場所はそこにあり、招かれているから。主は渇かれたから、私たちは渇きから救われる。今日、渇きを委ね、心から、感謝したいと思います。