説教要旨

2025年2月9日主日礼拝説教要旨

「神様の火」 家次恵太郎牧師

イザヤ書6章1~7節

イザヤの召命です。預言者イザヤが神の言葉とメッセージを語り伝えて生きていく、その初めはこのようであったという出来事でした。神の言葉を語ることは人間にはできません。それが可能だとすれば、その唇が神によって清められなければなりません。神のものとされなければなりません。

イザヤは主なる神が王座に座っておられるのを見ました。移り変わり命尽きるこの世の王ではなく、永遠に変わることのないまことの王が座している。それだけで十分なほどに、神様が神様としていかなるものからも分かたれた聖なるご自身を明らかにされたのです。

そしてイザヤが見た御使いセラフィムは顔を覆っていました。なぜでしょうか。それほどまで神が聖なる方だからです。旧約聖書には、主なる神と顔と顔を合わせれば死んでしまう、と繰り返されています。

 その神様の聖性が周囲の全てを満たし、揺り動かしました。そのことに直面した時、イザヤは、「災いだ、わたしは滅ぼされる」と語りました。もうダメだと。そういう他はないほどに神が聖なる方であることに貫かれていました。人間は神の御前で何の言い逃れもできません。本当に神が聖なる方であり罪と共存なさらないことがわかるならば、人間は恐れおののく他はないでしょう。

汚れた唇の者、など「唇」と繰り返されているのは、言葉を意味しています。そして言葉は言葉で終わりません。言葉は同時に行為であり出来事を生み出すことを私たちも知っています。他者に対して、自分に対して、何らかの出来事を起こしてしまうものです。その強大な力が罪の汚れをまとっていて手に負えないし傷つけ合い続けるのも人間のありのままの姿です。そこに神の聖性によって裁きをもたらされるならば、滅ぼされるしか予測できないでしょう。

しかし、そのとき、セラフィムが神殿の祭壇から火鋏でとった炭火をもってきて、唇にあてた。焼かれたということです。火は小さくても全てを変えてしまうほどの力を持ちます。それは私たちも、例えば料理において生肉が焼けて食べられる状態になるという日常の経験でもわかります。

そして罪が赦されたと語られるのです。神様の火が罪を焼き尽くし、赦される。これはイエス・キリストの十字架をあらわしています。神殿の祭壇は、罪の赦しのためのいけにえ、犠牲の動物が捧げられる場所。キリストはただ一度きり、完全なささげものとしてご自身を人間の罪の赦しのためのいけにえとしておささげになったのです。この事実が私たちに迫りきて、唇を焼くように罪を洗い清めてくださいます。新しくしてくださいます。これは神の御業です。災いだ、わたしは滅ぼされるとしか言いようがないわたしたちの罪を焼き、焼き尽くす主の十字架があります。十字架にかかられたイエス様が触れてくださいます。そのとき、神に根拠をもって、あなたの罪は赦されたという言葉を聞き、神の福音の言葉が唇に灯され、賛美し祈る者とされます。自分を生かしている御言葉を、他者にも、自分にも、語り伝える人とされます。神様の火によって、キリストによってそれは可能とされる恵みなのです。

2025年2月2日主日礼拝説教要旨

「語りかけ力づける神」 家次恵太郎牧師

創世記28章10~22節

お読みした創世記に出てきたヤコブは、イサクの息子で、双子の兄エサウがいます。ヤコブはエサウのみが受け取る長子の特権と、長子にのみ父から与えられることになっていた神の祝福を得たくなり、兄と父をだましてそれを得ました。そして兄エサウに命を狙われることなり、逃亡します。彼は、とぼとぼと歩いて夜を迎えました。19「その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた」とありまが、明らかにこの時点で町はありません。荒れ野で野宿しているのです。

惨めな姿と思いです。こんなはずじゃなかったと思いながら、彼は石を枕にして眠りについたとあります。固いでしょう。寒く暗いでしょう。その彼が夜を過ごし眠る場所は神様と出会う場所とされたのです。聖書は、神様が罪深いヤコブにどのように関わられたかを伝えます。

 

12「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」。

不思議な表現です。天まで達する階段が、地上から伸びているのではないのです。天から地に向かって伸びている。神様から人間にかけられた繋がりであるということです。神の御使いたちが上り下りしているのは、明らかに神様が開いてくださった天との確かな繋がりの中にあることを示しています。地上から伸びているならば途中で切れているかもしれません。しかし、天から伸ばされたのですから大丈夫です。

13「見よ、主が傍らに立って言われた。」

そして驚くべきことが語られます。主はもうヤコブの傍らに立ってくださっていました。

「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。

15「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」

ヤコブは自己中心に生き、人を欺き、今は途方にくれています。その今を実感しかみしめて夜を過ごし石を枕にするヤコブにこそ、神は共におられるメッセージを伝えます。決して見捨てないと言う言葉がどれほどの重みを持ち、感謝と驚愕を生むものか。ヤコブは目が覚めてすぐ、気がついて言うのです。

16ヤコブは眠りから覚めて言った。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。」

イエス・キリストは十字架にかかってくださったこの世界は、神があのヤコブが見た階段をかけてくださっている世界にされたのです。神の御業を受け、共にいる、決して見捨てないと語りかけ力づける神様を知らされることになるのです。主の十字架を示されて、わたしたちは、まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかったと思わされるのです。人生を根底から揺るがされ、変えられるのでしょう。

2025年1月26日主日礼拝説教要旨

「神の国は手の届くところに」 家次恵太郎牧師

マタイによる福音書4章12~17節

私たちが救われるとしたら、イエス・キリストの近づきによる他はありません。そのことに立ち返り、感謝したいと思います。

 

洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって捕らえられた知らせを、イエス様は聞きました。この後にヨハネは命を奪われることになります。イエス様はその時、痛みの出来事の中で、ガリラヤへと退いたとあります。退いたと言いましても、逃げるためではありません。ガリラヤはヘロデの領地でしたから、逃げるならガリラヤではないでしょう。そうではなく、イエス・キリストはガリラヤに集中されたのです。ここから、宣教を開始されたのです。

「異邦人のガリラヤ」と言われています。ユダヤ人から、異邦人は神からもその救いからも遠い存在と見られていたのです。ガリラヤは北の境に位置する地域で、北の諸国から様々な民族が入り、純粋なユダヤ人ではない混血の人々の多い地域でした。それはユダヤ人の目から見て神から遠く、救いから遠いと見なされていました。

 

そこに集中し、近づいて行かれ、語りかけ、こう言われたのです。「悔い改めよ。天の国は近づいた」(17節)。イエス・キリストが近づかれたので、天の国(神の国)は近くに来たのです。私たちを招いて迎えるために。悔い改めが神の赦しによって受け入れられ、神様のもとへ帰ることができるために。

イエス様は近いです。私たち人間はどこまでもどこまでも遠かったにも関わらず。イエス様が近づいてくださるならば、もう一度新しく神様と共に生きられるという、生きる場所を得ます。まさに、神の国が手渡されるという出来事を受けます。手渡され手が届くのは、イエス様の方が手を伸ばして下さっているからです。

イエス様ご自身が、神の伸ばした救いの手です。十字架にかかられて罪を赦されるそのお方、その御手は冷え切った命にあたたかな息吹を吹き込みます。息を吹き返す出来事が起こされます。どこに場所をもって生きるかは、死活問題です。私たち人間にとって、神様に造られ、愛されている者として、神のご支配の中に生きる者となる、それ以上の生きる場所はありません。

イエス様は私たちにも集中してくださいます。暗闇に住んでいたとしても、そこはあなたの永遠に生きる場所じゃないと大きな光のもとに守ってくださいます。その光が、御言葉を聞いている私たちに差し込んでいます。しかし背を向けてしまっている時もあるでしょう。光に背を向けていれば、見えるのは自分の伸びた影だけ。そんな時でもなお、イエス様の手は伸ばされています。十字架はそれでもなお私たちを生かし、神の国に招いてくださる圧倒的な恵みです。

だから私たちが向き直るとき、その手を取ることができます。とても近きに来てくださったから。その接近に気がつけたら、どんなにか幸いでしょうか。そしてその後まで、主は全てを導いてくださいます。キリストの介入が、お一人おひとりの人生にありますように。

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