「神様の火」 家次恵太郎牧師
イザヤ書6章1~7節
イザヤの召命です。預言者イザヤが神の言葉とメッセージを語り伝えて生きていく、その初めはこのようであったという出来事でした。神の言葉を語ることは人間にはできません。それが可能だとすれば、その唇が神によって清められなければなりません。神のものとされなければなりません。
イザヤは主なる神が王座に座っておられるのを見ました。移り変わり命尽きるこの世の王ではなく、永遠に変わることのないまことの王が座している。それだけで十分なほどに、神様が神様としていかなるものからも分かたれた聖なるご自身を明らかにされたのです。
そしてイザヤが見た御使いセラフィムは顔を覆っていました。なぜでしょうか。それほどまで神が聖なる方だからです。旧約聖書には、主なる神と顔と顔を合わせれば死んでしまう、と繰り返されています。
その神様の聖性が周囲の全てを満たし、揺り動かしました。そのことに直面した時、イザヤは、「災いだ、わたしは滅ぼされる」と語りました。もうダメだと。そういう他はないほどに神が聖なる方であることに貫かれていました。人間は神の御前で何の言い逃れもできません。本当に神が聖なる方であり罪と共存なさらないことがわかるならば、人間は恐れおののく他はないでしょう。
汚れた唇の者、など「唇」と繰り返されているのは、言葉を意味しています。そして言葉は言葉で終わりません。言葉は同時に行為であり出来事を生み出すことを私たちも知っています。他者に対して、自分に対して、何らかの出来事を起こしてしまうものです。その強大な力が罪の汚れをまとっていて手に負えないし傷つけ合い続けるのも人間のありのままの姿です。そこに神の聖性によって裁きをもたらされるならば、滅ぼされるしか予測できないでしょう。
しかし、そのとき、セラフィムが神殿の祭壇から火鋏でとった炭火をもってきて、唇にあてた。焼かれたということです。火は小さくても全てを変えてしまうほどの力を持ちます。それは私たちも、例えば料理において生肉が焼けて食べられる状態になるという日常の経験でもわかります。
そして罪が赦されたと語られるのです。神様の火が罪を焼き尽くし、赦される。これはイエス・キリストの十字架をあらわしています。神殿の祭壇は、罪の赦しのためのいけにえ、犠牲の動物が捧げられる場所。キリストはただ一度きり、完全なささげものとしてご自身を人間の罪の赦しのためのいけにえとしておささげになったのです。この事実が私たちに迫りきて、唇を焼くように罪を洗い清めてくださいます。新しくしてくださいます。これは神の御業です。災いだ、わたしは滅ぼされるとしか言いようがないわたしたちの罪を焼き、焼き尽くす主の十字架があります。十字架にかかられたイエス様が触れてくださいます。そのとき、神に根拠をもって、あなたの罪は赦されたという言葉を聞き、神の福音の言葉が唇に灯され、賛美し祈る者とされます。自分を生かしている御言葉を、他者にも、自分にも、語り伝える人とされます。神様の火によって、キリストによってそれは可能とされる恵みなのです。