説教要旨

2024年10月27日主日礼拝 説教要旨

「最初のものは過ぎ去った」家次恵太郎牧師

             ヨハネの黙示録21章1~4節

 

「そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(34節)。

聖書は私たちの神様は、私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださる神様だと伝えます。目に涙が流れるのは、悲しみだけはないでしょう。うれし涙というものがあり、場所や人や音楽などの懐かしさに涙が出た、ということもあります。それはぬぐい去られなくてもいいと思います。

ここで主が手を伸ばされるのは、深い痛みと共にある、悲しみの涙でしょう。涙が溢れるという表現があります。その通りの感覚を覚えます。一朝一夕でない感情があります。まるでコップに水がいっぱいに入っていて、それをこぼれないように運んでいるような人生の日々の中、その感情のコップに何かが入れば。勢いよく飛び込んできたならば。そこには溢れる涙があります。涙は悲しみであれ嬉しさであれ、自分の範囲を超えたキャパシティオーバーの感覚から繋がってくるものではないでしょうか。

 

その一つ一つを、その涙があふれるに至る背景を、出来事を、蓄積とトリガーと影響をも…主なる神は覚えていてくださる。

一つとして取りこぼすことはなく、慰めの時が訪れるのです。どうにもならない厳しい思いに、休みの時が来る。それは全てを知っていて理解者でいてくださる神からしか始まりません。そのような神と人の関係に、なってくださることをおやめにならない神様です。涙に関わることを諦めない神様が自ら人と共にいてくださると知らされます。

 人にはそのような力はなく、励ましの言葉の見抜きも不十分をまとっています。誰かを助けても、その中で誰かが涙していることもある。終わりの日まで、その感覚のもどかしさは続くのかもしれません。しかし、隣人として置かれている所で、涙ぬぐう神が悲しみを望まれないことを知りながら、へりくだって助け合う者とされたいと願います。その御手をあらわすものとされていくことは、神様が導いてくださるならば、神の必要の中で意味を与えられ、誰かの意味になるのではないでしょうか。

 悲しみを、世には無き光で照らして、渇き求めて伸ばしてきた手をとって救い抜いてくださる世界、時間の中に入れていただけます。悲しみと罪の不十分さに代わってです。最初のものは過ぎ去ったと、先だって宣言して下さっていますから。

2024年10月20日主日礼拝 説教要旨

「イエスは私たちのために祈られた」家次恵太郎牧師 

          ヨハネによる福音書17章13~26節

イエス様は弟子たちのために、祈りました。

「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。」

世で苦難がある弟子たちです。彼らを、これ以上世に興味を持たずそれを捨て、愛さずに、世から取り去り…別世界に生きるようにさせるのではありませんでした。

主の御言葉はどこかから聞こえては来ないのです。伝える者が遣わされます。言語の伝達のみならず、赦され生かされ、希望を寄せて祈る姿が語ります。雄弁に真実に語るのです。どのような場であってもなお、です。

そしてイエス様は、このとき側にいた弟子たちだけではなく、彼らが後に初代教会として始まっていく世々の教会のために祈られました。

「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。

彼らの言葉とは、キリストの救いを宣べ伝える教会の言葉、すなわち御言葉です。その説教であり、御言葉の実現としての祈りと賛美をまことの霊によってなす教会の姿です。つまり主は、私たちが含まれている、教会の礼拝のために祈られたのです。イエス様は私たちのために祈られたのです。全ての教会がこの祈りの中に入れられて全ての週を過ごしています。それがこの祈りのゆえに可能なのです。

21父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。

イエス様が、神様が共におられ内におられ、一つだからこそ、信じる者たちも一つになることを願ったのです。

互いに愛し合い大切にしあうことによってその姿は神の愛を生きる道とし変えられた者たちの姿になるのです。悪い者から守られたことはそこでわかる。証しとなるのです。信じて続け礼拝することは、奇跡です。全ての教会において奇跡です。日野台教会が礼拝しなくても、他の教会がするでしょうと思うかもしれません。しかし、同じです。来週には全ての教会が礼拝をやめることは、冷静に考えればあり得てしまうのです。そのように全ての教会が礼拝し御言葉を語り伝え、信じるという流れが止んでしまえば、「彼らの言葉」は聞こえてこないのです。しかし、イエス様の祈りの方が強い。だから、今日に至るまで礼拝は止むことがありませんでした。世にあって悪い者から守られ続け、世に遣わされて世に属さず、一つにされて神が内側から支え救ってくださっています。イエス様の祈りの実現として、信じて、生きてみませんか。

2024年10月18日ミニ礼拝 説教要旨

「独りでいる人へ」 家次恵太郎牧師

                創世記2章18節

 

「主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」」。

神様は私たちと世界の造り主でありますが、それは人の助け手を造り、そして出会わせる、言うなれば出会いを造り出す神であると言えます。

漢字でも孤独の独が使われているように、心の奥底から他者と共にいることなく、何にも属せず、それによって孤独を感じている状態のことです。

一人で楽しむ趣味もたくさんあるでしょうけれど、そういうこととは少し違います。危機的な孤立感に繋がる状態が、人生の局面には紙一重のように構えているものです。

 

創世記1章から2章の天地創造の話において、神様は人間が生きるために必要な全てを備え、完成してくださいました。しかし、人は一人でした。そして、他の何によっても助け手は見いだせなかったというのです。

人には、人が要る。しかも誰でもいいわけではないのが私たちの実情でしょう。この時、この人が、言葉が、または所属する集まりが、助けとなるよう導かれ出会うのです。

 

この言葉は、よく、結婚についてのこととして学ぶことも多い聖書の箇所ですが、究極的には結婚や男女だけに留まらずに聞くことができる御言葉です。

神様が造り出した出会いによって、助けられ、受け入れられ、赦され、笑いあえて、共感されて、私たちは生きてくることができたのです。

 

そのように私たちが誰かと出会うように、いつか独りでなくなるように、神様は準備し導いておられる。そう信じるのです。

 

色んな人が救われるには色んな人が必要です。だから、色んな人がいて、互いに助け合うように置かれているのです。

2024年10月6日主日礼拝説教要旨

「イエスは涙を流された」 家次惠太郎牧師

                         ヨハネによる福音書11章28~44節

35イエスは涙を流された」。

それは単に悲しみのゆえではないようです。この涙が流れるまで、次のような状況がイエス様を取り囲みます。

32「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。 33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、 34言われた。「どこに葬ったのか」」。

 イエス様は心に憤りを覚えられた。つまり怒られたのです。死の力により絶望が支配している人間の世界。憤り、ラザロを探し変えようとしておられるキリストの姿は、さらに言うならば悪魔の支配に対峙しているのです。別の箇所では「この世の支配者」とも表現される悪魔に立ち向かって。人間を暗闇と絶望に閉じ込め死の支配を疑わないものとさせる悪魔と戦っているのです。

 

 37「しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。」

 一人一人の心が、そう言うしか無い、それしか出てこない現状に対してです。人間が自分では打ち破れない現状です。死よりも強いものはなく、あらゆる出来事から結局絶望に結論を持つように心はそこに向かう。泣き叫ぶ空間を突き破るように、共に涙を流しながら、しかし戦えない戦いを成して下さりながら叫ばれます。

 

43「こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。 44すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。」

出て来なさいとは、ラザロ、ここへ!という表現です。墓の中まで届く神の呼び声。一度死んで復活をもたらす主の命の御言葉があります。

私たちにも聞こえます。神の愛は、罪の赦しは、悲しみへの寄り添いは、私たちのための憤るほどの救いの御心は燃えて届きます。それが私たちを起こします。この地上での全ての日々、その最後に至ってさえ。

そこではない、ここへ!出て来なさい、神のもとに帰って来なさいと。

この場面には死と命が同時にあります。復活をもたらすキリストとラザロの死。それはこの後に十字架にかかり死なれるキリストであるから、ラザロはその命と引き換えに新しく生き始めるのです。私たちもそうです。古い自分に死に、神に対して生き始めるのは、キリストの十字架の先に、赦され、生かされ、誰にも奪えない希望に満たされる命をいただくからです。

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