説教要旨

2025年3月21日ミニ礼拝説教要旨

「イエス様の渇き」 家次恵太郎牧師

ヨハネによる福音書章19章28~30節  

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた」(28節)。

イエス様が十字架にかけられている時でした。人の目によるならば、いったい何が成し遂げられているというのでしょうか。イエス様はののしられ、釘打たれ、磔にされた方が、息も絶え絶えになっているのです。弟子たちもいなくなりました。

「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ837)と言われた方が、十字架上で渇かれたのです。本来渇くことのない神の子が、私達の罪を代わりに負い、裁きを受けてくださっているからです。それは渇きを代わりに引き受けてくださっているのです。その渇きは、命の渇きです。でも、十字架の場面に至る前も、イエス様は私たちのために、ずっと渇いてくださっていたのです。クリスマスに飼い葉おけに生まれ、苦しむ人をどこまでも探し求めて訪れ、無理解の中で神の愛と救いを語り続けてこられた方は、罪人と共に立って、その渇きをずっと引き受けてくださっていたのです。

 

私たちは、例えば喉が渇いたら、いつかどこかでいいや、ではなくすぐに飲み物が欲しくなります。特に夏場に外で活動していたら、気持ちの問題ではなく体の状態としても緊急で水分補給しないとなりません。持っているものでも、自動販売機でも、カフェに入るでも、渇きを何とかするためならすぐに何とかするものでしょう。

他者に対して、家族や友に対して、渇いているならばなんとかしてあげたい、と思うものです。しかし状況が好転していかない、報われない、進まないということが起こり得ます。

行くべき場所がない。それこそが本当の渇きです。しかし、私たちにイエス様の御言葉があります。渇いているものは誰でも、わたしのもとに来なさい。そして、「渇く」私たちが渇くことがないように、渇いてくださった。今も、あなたの渇きは受け止められ、行き場所を持っている、と言われているのです。

「渇く」。この言葉も私達への慰め深い語りかけとなります。イエス様のところに持っていっていいのだと信じていい。そのためにキリストは十字架の死を死なれ、私たちの罪を、欠けを、弱さを、死を、担ってくださりそこから守ってくださるのです。渇いて渇いて仕方がない私たちが潤されていく、命の泉が内からわき出て流れ、やがて誰かをも潤していく。そんなことが起きるのです。あなたは救われるということです。だからあなたも大丈夫と私たちが言われ、誰かにも伝えることができる。イエス様がいてくださるから。私達の行き場所はそこにあり、招かれているから。主は渇かれたから、私たちは渇きから救われる。今日、渇きを委ね、心から、感謝したいと思います。

2025年3月9日主日礼拝説教要旨

「人を生かす神の言葉」 家次恵太郎牧師

マタイによる福音書4章1~11節

  3月5日(水)、灰の水曜日から受難節に入りました。神様が、主のご受難を通して与えられた、罪の赦しと、神の愛の勝利を特別に思い起こし自らを恵みのもとで省みる時です。

今日の聖書には、イエス・キリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受けたという話が書かれていました。誘惑を受けるために、霊(聖霊)に導かれて荒れ野に行ったのだと書かれています。キリストは、神は、悪魔の不意打ちを受けたというのではないようです。自ら荒れ野に向かっていかれた。誘惑を受けて立ちに行かれたというのです。神のご計画の中に、このことも意味を持っている。それはなんだったのでしょうか。

主は悪魔から3つの誘惑を受けます。第一は、石をパンに変えろという誘惑。そうして満ち足りろという、そうしたいのだろうという誘惑であります。できないことは誘惑に石をパンに変えることができたであろうイエス様だからこそこの誘惑を選んだのでしょう。

「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

パンだけで生きると思わせることに誘惑があったのです。イエス様が引用したのは、かつて、荒れ野でマナを降らせてイスラエルを養って下さった神様が語った御言葉です。そのことを知るように、それが神様の御心でした。しかし、イスラエルはそれができませんでした。長い歴史の中、神の言葉によって生きることに信頼を置くことができず、語りかけ関係をつくりあげてくださる神様かを求めることから離れさせていく誘惑に負けてしまった歴史があります。決して消えませんが、イエス様はイスラエルが負けてしまったその誘惑に再び立ち、完全な従順をもって打ち勝たれたのです。

第二、第三の誘惑も同じです。「あなたの神である主を試してはならない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」 と書いてある。それができませんでした。神の愛を信頼できず、神ならぬ様々な偶像に心奪われて、王国の崩壊まで招いてきた。聖書の言葉神は聖書を通して、あの時のイスラエルへの言葉を今も言ってくださっているのです。「あなたの神」であると。それでもなお、あなたの神となってくださる。負けてしまった誘惑の中でボロボロになっている神との関係を、キリストは立て直しにきてくださいました。すなわち、主は誘惑に負けてしまったイスラエルの歴史を辿り直してくださっていると言えます。イエス様は確かに誘惑を受け、悪魔に勝利されることによって、その勝利を私たちの勝利としてくださっています。私たちを共にあらせてくださいます。そのために、十字架の死に至るまで従順を貫かれた、受難のキリストがおられます。誘惑を受け、勝利してくださった姿は私たちの罪の歴史、今現在からみついている罪の現状にイエス様が来てくださる姿です。私たちの従順ではなく、イエス様の完全な従順が私たちを取り戻します。

2025年3月2日主日礼拝説教要旨

「イエスの方へ進んだ」 家次恵太郎牧師

マタイによる福音書14章22~36節

 

 嵐の湖を、イエス様の弟子たちが弟子たちだけで漕ぎ悩んでいます。

危険から来る不安、不安から来る焦り、焦っても直面するのは自分たちでは対処できない無力感であるでしょう。キリスト者は、信仰に生きながらも、その不安に沈んでいくことがあります。実際、状況が苦しいのですから、苦しみの方に目が向いてしますばかりになるのは仕方ありません。

しかし、聖書を読み進めると、イエス様が湖の上を歩いて、弟子たちのところに来てくださいました。湖はその足の下です。「湖」と書いてありますが、この言葉は「海」という言葉です。荒れ狂う海、人間を遥かに超えたその得体の知れない力の前に、自分でなんとかできるという人はいません。その海を足の下に踏みつけているキリストの姿が見えました。わたしはここにいる、確かに共にいるのだと語りかけるイエス様はこのようなお方です。世の暗闇の力、困難極まりない八方塞がりの状況、辛い心の内から、私たちを確かに支え、助けることがおできになる方なのです。

ペトロはイエス様のもとにいくことを願いました。イエス様の言葉を求めるペトロに、「来なさい」という御言葉をもって招いてくださいます。

しかしペトロは途中で、風と波に気が付いて怖くなり、沈み始めます。ペトロが湖の上を歩いているときよりも、私たちに身近な存在として感じられませんか。私たちもイエス様に従って歩き出したつもりでも、途上で怖くなり、心も体もどうにも負けてしまい、沈んでいくことがあるからです。

「主よ、助けてください」。疑ってなどいられません。信じられるか信じられないかなどと言っている場合ではありません。主よ、助けてくださいとしか言えません。しかしそれでいいのです。そこに、イエス様は手を伸ばしてつかまえてくださいました。沈ませまいとして手を伸ばして下さるキリストはペトロを確かにつかまえてくださり、ペトロは沈んでいかなかった、これは、イエス様が生きて働かれる全ての生活の場所で起こされる事実なのだと聖書ははっきりと伝えるのです。

ペトロがイエス様を探してつかまえたというのではありません。イエス様がペトロをつかまえてくださったのです。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」という言葉は、沈みゆくペトロに向かって語ったのではありません。手をつかまえ決して沈まないようにしてくださりながら語るのです。沈み始め、沈みゆくしかない、悲しい存在が、主の御手の中にしっかりと引き受けられている。これは福音です。一方的な恵みなのです。私たちの目に見えない現実として、確かに起こされているのです。キリストは確かにいてくださり、海を足下にして私たちをつかまえていてくださいます。私たちは沈みかけても、イエス様は決して沈むことはありません。この方に、どうか、助けていただきましょう。

2025年2月23日主日礼拝説教要旨

「小犬のように」 家次早紀牧師

マタイによる福音書15章21~31節

人生は、一瞬にして変わってしまうことがあります。昨日まであった当たり前の日常が、何の前触れもなく、急に失われてしまうことがあります。この聖書箇所に登場した一人の母親も、そのような経験をした一人なのではないでしょうか。彼女はカナン人です。つまり、彼女はユダヤ人からみれば神を信じていない異邦人です。しかし、それにもかかわらず、彼女はどこかでイエス様の評判と、イエス様が宣べ伝えておられる神についての話を耳にして、心に留めていたようなのです。ある日、イエス様が近くまでこられたという噂を聞きつけると、彼女はすぐさまイエス様のもとへと急ぎました。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」ところがです。この母親が、必死に叫んでいるのにも関わらず、イエス様は何もおっしゃらないのです。そして、しばらくたってようやく口を開かれました。「イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです』」イエス様が言われた「子どもたち」というのはユダヤ人のことであり、「小犬」とは、この母親のような異邦人のことです。この出来事、そして、その後のイエス様の言葉に、戸惑ったことがある方は多いのではないでしょうか。

しかし、この母親は、そうとは考えませんでした。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と。そう言って、自分はイエス様が言われた通りパンを受けるべき「子供」ではなく、「小犬」であると認めたのです。彼女は、自分が神の恵みを当然のごとくいただけるものではないと言うことを受け入れていたのです

実は、イエス様とこの母親が用いている「小犬」という言葉は、家の中で、飼い主に飼われている犬を指す言葉なのです。そして、この母親が言った「小犬が、主人の食卓から落ちるパン屑はいただく」という状況は、実は、小犬と主人である飼い主の間に信頼関係がなければ成り立たないのです。つまり、飼い主が、小犬が落ちているパン屑を食べた際に、誰がお前に食べていいと言って、なんて意地汚いんだといって罵るような人であったならば、小犬は、例え目の前にパン屑が落ちてきたとしても、飼い主を恐れて決して食べたりしないでしょう。しかし、小犬が食卓から落ちたパン屑を食べることを、赦し受け入れてくれるような飼い主であれば、小犬は喜んで、そのパン屑を食べに来るのです。イエス様に会いに来た、この母親は、わたしはイエス様を、そのような主人だと信じておりますと告白しているのです。わたしは確かに小犬であって、食卓について、パンをいただける子どもたちと同じではない。これまで神を神とも思わず、生きてきた。けれど、イエス様、あなたはパン屑をいただきにくる私のような小犬を、今初めて神を見出し、信じようとしている私を、決して意地汚いと言って罵らず、決して追い返さず、憐れみの眼差しを注いでくださる、そう信じています、と告白しているのです。飼い主であるイエス様を心から信頼している、一匹の小犬のように。そして、イエス様はこの母親の言葉に信仰をみてくださいました。そして願いに応えて、この母親を憐れみ、娘をいやしてくださったのです。

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